2017年6月10日土曜日

旅を終えて/ Summary

イスラエルへの旅行を思い立って準備に2か月、旅行そのものは2週間、ブログにまとめるのに1か月半、合計4か月の間イスラエルで遊ぶことができました。イスラエルは、最近ではITCビジネスで縁がありますが、それでも一般的に日本人には縁遠いところです。イスラエルを旅行する日本人といえば、シニアの聖地巡礼者か、世界を巡る若い旅行者くらいでしょう。

宗教的バックグラウンドがあろうとなかろうと、行くところは同じです。そこで見るものも同じですが、見え方や感じ方は人それぞれです。それまでの積み重ねによって見え方は違ってきます。対象が宗教的なものなので、当然それについての基礎的な知識や情報、歴史についての理解がなければ古い建物と異国的なものを見て満足しそれで終わることになるでしょう。とはいえ、旅の楽しみ方は人それぞれですから、読者の皆さんは好きにされればよろしいかと思います。

イスラエルでは、キリスト教だけでなく、その母体だったユダヤ教と、イスラム教といったアブラハムの宗教を同時に見ることができます。なお今ここで「キリスト教」と書きましたが、それは旧派のキリスト教のことです。プロテスタントはイスラエルではほとんど存在感がありません。イスラエルはキリスト教発祥の地なのに、信仰の点で最もだらしなかったのがキリスト教です。ユダヤ教やイスラム教は偶像崇拝禁止≒一神教を守りつづけています。このことは特に難しいことではありません。ただ一人の神を崇拝していれば良いだけですし、偶像を作らなければ済むことです。イスラム教もユダヤ教も難なくそれを実践しています。なのに、旧派キリスト教はマリア崇拝や聖人崇拝を取り込み、実質的に多神教に堕しています。偶像は崇拝様式の一部になっています。さらにはユダヤ教やイスラム教にもない三位一体というアクロバティックな教理まで唱えています。もしモーセがエルサレムに陣取っているキリスト教を見たなら、十戒の刻まれた石版を叩き割っていることでしょう。

多神教が駄目だと言っているのではありません。自分たちは一神教なのだと言いながら、その実体において多神教化し、それでいて平気でいるところです。ナタナエルは偽りのない人でしたが、教会は欺瞞で満ちています。キリスト教はユダヤ教やイスラム教のストイックなところを見習う必要があります。そうでないのなら、一神教の皮を被った何か別のものだと白状すべきです。

「聖地」と言ってしまうとチープですが、イスラエルは聖書ゆかりの地です。どこに行っても聖書のエピソードと結びつけることが可能です。しかし地元に住んでいる人の意識においては、そうした由緒も、古い遺跡、観光客相手の商売のネタといった程度のものでしかありません。それにわたしは失望しました。しかしそれは日本でも同じで、なにがしかの由緒があるところであっても、地元に住む人々はそうしたことをほんとんど意識せずに日々の生活に追われています。「聖地」に憧れを抱いて世界中からやってくる巡礼者との間には大きな溝がありますが、それも仕方のないことです。それがリアルであり現実です。では、イスラエルという「聖地」には聖地のようなものは何も残っていないのかというと、そういうことはなくて、わたしの観点では、山や川や湖や、地中海性気候は残っていました。その点において、わたしがイスラエルの一部を歩いたことには意味がありました。