万国民の教会/Church of All Nations
カトリック
ゲッセマネの園を管理している教会です。なかなかおいしいところに陣取っていると思います。綺麗な庭に罪はありません。
この教会には、ゲッセマネの園でのエピソードが描かれています。
イスカリオテのユダがイエスに口づけし、祭司らに引き渡すのは非常にドラマチックなエピソードです。
ユダは、リーダーを官憲に引き渡して、新宗教運動の発展を妨げたので福音書の中でも、また世間の評判においても「裏切り者」ですが、このことについてよくよく考えてみないといけません。
確かにユダは、イエスを直接引き渡すことで裏切りましたが、他の弟子たちもイエスを見放して逃げてしまいました。これも、間接的な引き渡し、裏切りなのではないでしょうか。残った弟子たちは、自分たちの中途半端な信念と行動を棚に上げて、リーダーが奪われ処刑されてしまった責任をユダ一人になすりつけているように感じられます。死人に口なしとはまさにこのことです。
ユダの心境がどのように変化してイエスを引き渡すようになったのか、その理由ははっきりしません。福音書筆者は、「悪魔が入ったから」と説明しています。悪魔がやったのなら、ユダに責任はないことになるのではないでしょうか。少なくとも軽くなるのではないでしょうか。思慮の浅いペテロはイエスに「死ぬことはありません」とまぬけなことを言ってしまったために、イエスから直々に「サタンよ、下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者だ」と言われました。ペテロがサタンだったのは間違いないでしょう。イエスがそう言ったのですから。現にペテロはイエスを3度否認しサタンであることを露わにしました。
上の2つの指摘は、わたしにとっては軽い冗談のようなものです。わたしが特に深刻な問題だと考えるのは、現代のキリスト教の教理上(あるいはパウロ神学上)、イエスはどうしても死ななければならなかったことです。ユダが「しようとしていることを」行ってくれたおかげでイエスは無事に死に、その結果人類は原罪(アダムから受け継いだ罪)を赦された/赦される機会を得たのです。そもそもイエスは予め、死んでから三日後に蘇ると言ってはばからなかったわけです。「ユダこそ他の弟子の誰よりも、イエスの意志と神の奥義を正しく理解し、実行した」というのが正当な評価のように思われます。
わたしの観点から聖書中最大の罪と言えば、ユダがイエスを引き渡したことではなく、またアダムが善悪の知識の木の実に手を出したことでもありません。それは、ダビデがバテ・シバとの姦淫を隠すためにその夫ウリヤを前線におくり出して殺したことです。さらにあろうことか、なんとこの罪は赦されてしまったのです。こんな大罪が赦されるなら、アダムの罪からの解放と、神との和解につながるイエスの死を達成させたユダに一体何の罪があったというのでしょうか。