2017年6月2日金曜日

ヴィア・ドロローサ/Via Dolorosa

今度の旅行で最も優先順位の低かったのが、「ヴィア・ドロローサ(イエスが処刑具を自ら(途中まで)背負って進んだ(ということになっている通路))」です。ジーザス・トレイルでガリラヤを歩き回ったわたしが言うのもなんですが、ヴィア・ドロローサについては「これはなんだか違うな」という疑念が拭えません。そもそも、「ゲリジムでもなく、エルサレムでもないところで神を崇拝する時が来る」わけですから、イエスが最期に歩いた道は(劇的で印象的なエピソードではありますが)それほど重要なこととは思えません。
(アントニオ要塞があったところ。そのこと自体に争いはありませんが、今は「エル・ウマリヤ・スクール」という学校になっています。)

まず、イエスを鞭打ったところは、聖書に明示されているわけではありません。アントニオ要塞だったと想像するのはそれほど突飛な考えではありませんが、疑いの余地は残ります。
(ヴィア・ドロローサの終点である聖墳墓教会/Church of the Holy Sepulchreの手前です。看板が掲げられています)
(聖墳墓教会の入り口です。外観からは教会だとは気が付かないかも知れません)

ゴルゴタの丘はどこにあったのでしょうか。聖墳墓教会はゴルゴタの丘の上に建てられたということになっていますが、そこを比定したのは、イエスの磔刑に使われた釘を発見してしまったヘレナです。それ自体嘘っぽい話ですが、さらに、イエスの死から300年後にやってきてローマのヴィーナス神殿こそそれであると比定したことに一体どれだけの意味があるのでしょうか。
エッケホモアーチです。
エッケ・ホモ教会/Ecce Homo Church

スタートもゴールも不確かなら、そのルート沿いにある各ステーションは一体何なのでしょうか。
処刑具をおもに運んだのはクレネ人シモンです。たまたま居合わせた人物です。一体どこで肩代わりしたのか、福音書を読んでも分かりません。そもそも、エルサレムの街はユダヤの反乱で破壊され長い間放置されたため、街並みは2000年前と同じではありません。
また、イエスが3度躓いた記述も聖書には書かれていません。歩いていれば躓くこともあるでしょうから、躓いたこと自体はあったと考えてもセーフですが、その「3度の躓き」は一体どこから来たのでしょうか。そもそも躓いたのが歴史的な事実だったとして、そうしたことは礼拝に値する重要なエピソードなのでしょうか。

極めつけは十字架です。イエスがはり付けられたのは、当時のギリシャ語のStauros (σταυρός)です。これの字義は「杭、柱、真っ直ぐな棒」です。もっとも、当時のローマ人の習慣では、処刑時間を長引かせ苦しみを増すためにStaurosに横木を通していたそうです。このStaurosは十字形だったのでしょうか。それとも、T字型、あるいは棒状だったのでしょうか。聖書は「はり付けた」と書いているだけで形状について特に記していません(特に記されていないことから、形状は重要ではないということが理解できます)。

この点、岩波版新約聖書翻訳委員の佐藤研(マルコ、マタイ、ルカ福音書翻訳担当)は、Stauros (σταυρός)の大多数がいわゆる十字架の形をしておらず、そもそも処刑方法を意味するのみであったことを指摘し、「十字架」は一世期のStauros 刑を表現するには極めて不十分な表現であるとし、「杭殺刑」「杭殺柱」という新しい訳語を用いることを提案しています。
(新約聖書翻訳委員会編『聖書を読む 新約篇』、岩波書店、2005年、pp.8-22)

安彦良和著『イエス』(NHK出版、2003年、pp.366)

これは安彦良和の『イエス』のひとコマです。同作は、多様な関連資料をバランス良く折り込んでいて、創作部分も全体との辻褄があうよう構成されており、なかなかの秀作です。色々な資料を検討した結果、上のような絵を描いたのだと思います。

なお、作品の中ではこの後、イエスが背負っているこの杭状の処刑具には横木が加えられ、十字架状になります。しかし、両脇の罪人らの処刑具はT字型として描いており、暗に処刑具の形状は特定できないことを示唆しているように思えます。

ちなみに、安彦良和の『イエス』は、史的イエス観をベースに描かれており、ローマ支配とそれに不満を抱くユダヤ人といった政治関係を背景にイエスが解釈されています。ちなみに、イスカリオテのユダは典型的なスパイとして描かれていますが、もし著者が「ユダの福音書」を読んでいたなら(同典は、執筆時(1997年ごろ)にはまだ公開されていませんでした。「マリアの福音書」は資料として読み込んでいたことが伺えます)、別の描き方がされたかも知れません。

「ユダヤ戦記」の翻訳者の秦剛平も、ギリシャ語版エステルのハマンを刑具(モルデカイを吊るす予定で用意された刑具)に吊るした時の語に、「木柱に吊るす」を意味するアナ・スタウローが用いられていることを指摘しています。新共同訳(ギリシャ語)のエステルにおいても、その部分だけはなぜか「十字架」ではなく「木柱」と訳されています。
われわれはまた『古代誌』で使用されているわずかひとつの単語から、その本来の意味が後のキリスト教の世界で歪曲されて使用されてきた可能性があることを知る。たとえば、本書の第2章で取り上げたエステル物語に登場する「木柱に吊るす」を意味するアナスタウローである。このギリシア語は短い横棒と長い縦棒を組み合わせた十字形の木柱ではなく、あくまでも一本の棒である。ということは、このギリシア語は新訳聖書でも使用されているが、ヨセフスの理解するこのギリシア語をイエスの刑死ないしは変死の場面にあてはめると、このギリシア語からは、イエスは十字架にかけられたのではなく、一本の木柱に吊るされたとする新しい理解が生まれてくる。そもそもわれわれは何百本の木柱がエルサレムのアントニアの塔−−そこは祭りのときなどひと騒ぎおきそうなときにカイサレアから送り込まれたローマ兵が駐屯する、神殿を見下ろす監視塔である−−の中に保管されていたと想像するが、十字架状のものではかさばってしょうがない。何百人ものユダヤ人をローマ帝国にたいする反逆罪で告発し、彼らを柱に吊るすのであれば、それは保管上からしても一本の木柱であったと想像するのが妥当である。 
(秦剛平著『空白のユダヤ史: エルサレムの再建と民族の危機』(京都大学学術出版会、2015年、pp.345-346)
Chiasmusという語がありながらStaurosが採用されたことを考えるなら、下の図が実際の処刑シーンに近いように思えます。
きっとこのよう具合だったのだろうと思います。T字型(Tau)の可能性もあります。処刑ですから、(黄金比ではない)十字型(Greek Cross)は構造的に無意味で、ありえないだろうと思います。では、黄金比の十字型(Latin Cross)だったかというと、それも十分な根拠はありません。

以上のようにヴィア・ドロローサは欺瞞に満ちていると言わざるをえませんがそれらを踏まえた上で、旧市街東側の北にある獅子門から「ヴィア・ドロローサ」を辿ってみることにしました。

わたしが驚いたのは人の少なさです。
ダマスカス門で見た人混みはどこにいったのでしょう。
エルサレムはキリスト教の聖地だから、世界中から訪れた巡礼者でごった返していると思っていたのにこの有り様です。
岩のドームに向かうイスラム教徒は列をなしていたのに、ヴィア・ドロローサではイスラエル兵の方が多いくらいです。
人はいるにはいましたが、イスラム教徒の女性でした。
サインです。
これに従って歩けばヴィア・ドロローサで迷うことはありません。
真っ直ぐな一本道ではなく、2、3度折れます。

ゴールです。

エルサレムは、ユダヤの反乱以後ユダヤ人は離散していなくなり、7世紀にはイスラム教徒が住むようになりました。十字軍の遠征で一時的にキリスト教の勢力圏に入ったこともありますが、しばらく後にイスラム教圏に戻り、20世紀まではその状態が続きました。歴史的にもエルサレムはイスラム教徒の聖地だというのが実体に即していると思います。

中世や近代ヨーロッパの宗教画には、聖地としてのエルサレムが描かれていますが、行ったことのない画家が美化して描いたものです。それでも絵には影響力がありますから、ヨーロッパのキリスト教徒がエルサレムを特別などこかと思い込んだとしても仕方ありません。日本人であるわたしは欧米の文化の影響を受けているので、エルサレムをそのようなところと思い込んでいましたが、ここに来てそれは誤解であることがよく分かりました。
ヴィア・ドロローサではほとんど巡礼者を見かけることはありませんでしたが、猫はいましたので、その写真をアップしてこの項を結ぶことにします。