2020年1月18日土曜日

渡良瀬橋/Watarase Bridge

田中正造の足跡を辿る旅を目指しながら、2日の間に行ったのはわずか三か所に留まりました。
足尾銅山鉱毒事件の活動を潰すために、古河財閥に操られた国と県が廃村に追い込んだ旧谷中村は現在、渡良瀬遊水地となっています。その遊水地は、権力の横暴とそれに蹂躙される無力な市民の悲哀の象徴であり、それを忘れるわけにはいきません。
しかし、昨年2019年の台風19号の大水において下流の洪水を防いだのもまた紛れもない事実です。これをどう辻褄を合わせるべきかについて結論は持ち越したままです。
さて、足利市にある渡良瀬橋にやってきました。
渡良瀬橋北側の少し東には、渡良瀬橋の歌碑が建てられています。
「渡良瀬橋」という歌は、渡良瀬橋を中心に落ち着いたメロディーで足利の街を讃えた曲なので、森高千里のファンでなくても楽しめるものと思います。
渡良瀬橋で見る夕日です。
曇りがちですが、なんとか見れました。
歌がリリースされたのは27年もの昔の1993年1月のことです。
街並みが変わっているとしても仕方ありません。
八雲神社です。
諸般の事情により繁盛しているように見受けられます。
ポツンとした公衆電話が床屋の角にありました。
以上で、東京に戻りました。渡良瀬川の河原に降りることはできなくもありませんでしたが、北風で風邪をひくわけにはいかなかったので。

佐野市郷土博物館/Local Museum of Sano city

田中正造記念館から同じ東武線を使い、佐野駅/佐野市駅から佐野市郷土博物館に向かいました。佐野市郷土博物館は駅から1.7kmもあり、ギリギリ歩けなくもない微妙な距離のところにあります。
佐野市郷土博物館で出迎えているのは田中正造の像です。館内に特別な一室が設けられており、貴重な資料も並べられているのですが、いまいち足尾銅山鉱毒事件とのつながりが明確ではありません。
珍しい文書等を展示しているのですが、その程度でした。
田中正造はただの「佐野市の郷土の偉人」ではありません。死して100年経った今もその伝記は読まれ、足跡を辿ったり名所を巡る人が後を絶たない稀有な存在です。
死後にこのような扱いを受ける人は滅多にいません。同じような存在に、キリスト教におけるイエスがいます。
田中正造は信仰の対象にこそされていませんが、後世の人々に多大な影響を与えた点でイエス・キリストを彷彿させます。
これらの遺品は、死亡時の全財産です。
聖書の字が細かそうですが、田中正造は老眼ではなかったのでしょうか。

なお、展示資料の撮影とSNS上での公開については事前に許可を得て行っています。

田中正造記念館/Shozo Tanaka Memorial Hall

足尾鉱毒事件田中正造記念館は、館林駅から東に1kmほど徒歩で十数分のところにあります。
田中正造を中心とした足尾銅山鉱毒事件について知りたければここに行くべきです。
運営はNPO法人が行っています。入館は無料です。わたしは寄付しましたが。
注意すべきこととして、毎日開館しているわけではないので、行く時には開館日かどうか確認しておく必要があるでしょう。
解説員がおり、展示されたパネルに従って、順序よくポイントをついた説明をしてくれます。
事前に予習していれば分かることですが、説明は簡潔に要点をついたもので素晴らしいものでした。誇張はなく過不足もありません。もちろん予習していなくても理解できるような展示されています。
田中正造記念館は、足尾銅山鉱毒事件と田中正造の語り部として、おそらく日本でトップレベルの施設だと思われます。
経済を優先して環境を無視することの代償は非常に大きいものであるにもかかわらず、まして政治と癒着することの危険性は計り知れないというのに、こうしたことをしっかり語り継ぐ施設は多くありません。
そのような中、田中正造記念館は「田中正造記念館」を名乗るにふさわしい学習の場でした。
さて、渡良瀬川流域は鉱毒による汚染によって被害を受けた地域でしたが、元は染色業が盛んな地だったようです。もちろん、度々氾濫する渡良瀬川が肥沃な土を届けてくれるので漁業も盛んな地でした。ニホンカワウソもいました。
田中正造記念館がある館林も被害地域です。利根川を境にそれよりも上の地域が被害地域になったのは、利根川からの取水が禁じられていたためです。
日本には足尾銅山以外にも多くの鉱山がありますが、足尾銅山だけが深刻な公害をもたらしたのは、古河財閥の創始者古河市兵衛が農商務大臣である陸奥宗光(むつむねみつ)の息子を養子にし社長に据えたり、後に平民宰相ともてはやされることになる原敬を副社長に据えたりして、有力な政治家を取り込んでいたからです。これでは監督官庁も手が出せません。
政治と癒着することで強大な権力を手にすることができます。そうすることで、古河市兵衛ら古河財閥は、自己の利益のために周辺住民の生命や健康、財産を、そして大地とそこに住まう他の生き物諸々を蹂躙していったのです。
死の川となった渡良瀬川はその後の何度かの大水によって鉱毒が押し流されて少しずつ回復していきました。
下のサケは、市民たちが自主的に行った放流の成果です。
それでも、今なお鉱毒の影響は残っています。芽を出しても枯れていた時代と比べれば前進していますが、まだ心持たない成長具合です。
足尾銅山鉱毒事件は100年前の過去の公害問題ではなく、今なお続く公害問題なのです。
足尾銅山の禿具合もご覧のとおりです。
過ちから学び繰り返さないようにしなければなりませんが、今の政治と経済の状況では期待薄です。

2020年1月17日金曜日

足尾周辺/Around Ashio

帰りの電車まで少し時間があったので、足尾駅まで街並みを見て回りました。
銅山が閉山しても精錬事業やリサイクル事業等は続けられたので直ちに人がいなくなったわけではありません。
しかし過疎化は進み、今では意識的な地域おこしが必要になっています。
どこも店は閉められています。開いている店を探すのが難しいくらいです。コンビニでさえやっていない始末です。
もし、こんな過疎地の村おこしを頼まれたならどうすれば良いのでしょうか。一番良いのはそんな責任背負い込まないことです。それでも、やらなければならないとしたら一体どうすれば良いのでしょうか。
それはもう、「足尾銅山鉱毒事件」という日本史級のコンテンツを最大限に活かすしかないでしょう。今の環境問題といえば温暖化がメインですが、東京電力福島第一原子力発電所が放射性物質を撒き散らした日本では、今でも公害問題から目を逸らすわけには行きません。
実際のところ、フクシマの放射性物質汚染地域は、人が住まなくなったことで野生動物の聖域と化しています。それと比べれば、禿山が今なお続く足尾の汚染の方が深刻と言えます。
100年以上にわたり今なお汚染が続くのはなぜか?なぜそのような失敗を犯したのか?今後類似の公害を防ぐにはどうすればよいのか?そういった問題を考え学ぶ場として足尾を生まれ替えさせるにはどうすれば良いのか?もしわたしが足尾の地域おこしを担当するならこういう方向性でやっていきたいですね。

足尾銅山観光/Ashio Copper Mine Museum

通洞駅を出てすぐにある突き当りを右に曲がり進んでいくと、数分で足尾銅山観光に着きます。
入館料は830円です。こんなに高い入館料の博物館はそう滅多にあるものではありません。
ボリュームは乏しく、1時間程度で見終えることができる程度です。
見ることができるのは、通洞と呼ばれる足尾銅山を横に貫く一本の坑道のほんの一部です。そこに坑夫の格好をしたマネキンが置かれており、当時の鉱山の様子を伝えています。
かつて用いられていた坑道に坑夫・坑女のマネキンを置いて当時の採掘の様子を説明していますが、このようなスタイルは他の観光用鉱山でも見れられるものです。
わざわざ、時間をかけてやってきて830円もの大金を払ってまで見なければならないようなものではありません。
わたしが遠くからわざわざ関東の辺境の地までやって来たのは、足尾銅山が他の鉱山と比べて特別だからです。
何が特別かといえば、それは当然に鉱毒問題です。
日本には、足尾銅山以外にも多くの鉱山があります。金山も銀山も銅山もあります。
どの鉱山にも鉱毒による環境問題は少しはありますが、足尾銅山のように周辺の山が禿山になり、100年以上経っても植林の成果が上がらないようなところはありません。
川の魚が死に絶えたり、渡良瀬川沿岸の田畑の作物が枯れて農業ができなくなったのは足尾銅山しかありません。
なぜ他の鉱山で防げたものが足尾銅山では防げなかったのか、それを知りたくてわたしは高いお金と長い時間をかけてここにやってきたのです。
この足尾銅山観光には、公害の「こ」の字も、田中正造の「た」の字もない、というのは言い過ぎで、少しはありますが、ほとんどないようなものです。
ところどころありましたが、強調されているわけではなく、まるで遠い昔の過去の出来事のように軽く触れているだけです。
足尾銅山鉱毒問題は、100年前の出来事ではなく、今現在も続いている問題です。
山も、渡良瀬川流域の田畑も、まだ完全に回復していません。
大雨が降るたびに渡良瀬川川底に沈んだ鉱毒は流れ出ていますし、渡良瀬遊水地湖底の鉱毒も残ったままです。
足尾銅山観光では、この深刻な鉱毒問題の概要を学ぶことはまったくできません。
現在にも及ぶ公害についても沈黙したままです。
こういうのを「反省がない」というのです。
足尾銅山が他の鉱山と異なるのは、この未曾有の被害をもたらした公害問題です。
そのような特殊性があるにもかかわらず、それについて沈黙を続けるというのは、無責任の最たるものです。
東京電力福島第一原子力発電所が放射性物質を撒き散らし続けている今こそ、足尾銅山観光は率先して、公害対策を軽んじた経済活動がどれだけ長期にわたって広範な環境汚染をもたらすのかを伝える場になるべきですが、その社会的責任を果たしていません。
足尾では田中正造も足尾銅山鉱毒問題もタブーとのことですが、その禁忌を破って足尾を新しく生まれ変わらせる勇気のある人物は出てこないものなのでしょうか。

わたらせ渓谷線/Watarase keikoku Line

これまで足尾銅山鉱毒事件と田中正造に関心があったのですが、中々行く気になれませんでした。遠いからです。

関東平野の辺縁に位置する足尾銅山は、東京駅/大手町駅から片道で4時間半かかります。往復で9時間です。行って帰るだけで一日が終わってしまいます。その他の足尾銅山鉱毒事件関連施設は分散しているため、駆け足でも回ることはできません。どうしても2日がかりになってしまいます。しかも、同じルートを往復することは無駄に感じられ、なかなか踏ん切りが付きませんでした。

この度は東京駅付近に逗留することになったので、田中正造の足跡の一部を追うことにしました。

足尾銅山(観光)にアプローチするには、わたらせ渓谷鉄道しかありません。わたらせ渓谷線はJRと東武とが接続しており、JRなら桐生駅、東武なら相老(あいおい)駅で乗り換えることになります。
7時に大手町(東京)を出、東京メトロと東武線を乗り継ぎ10時頃に相老に着きました。ざっと3時間(1414円)。ここから足尾銅山観光のある通洞駅までさらに1時間半ほどかかります。なお、足尾銅山観光に行く人は通常の切符を買うよりも「一日フリーきっぷ」(1880円)を買った方がお得です。フリーきっぷは、途中で乗車してくる車掌から買うことができます。

わたらせ渓谷線は、渡良瀬川に沿って走っています。1時間半もの間列車に揺られながら、ずっとこのような谷川を眺めることになります。
四国の土讃線から見たような景色が続きます。
しかし、吉野川と違うところはこの渡良瀬川は魚一匹いない死の川だったことです。
そういう歴史がなければ風光明媚な三セク路線なのですが。
通洞駅に着いたのは11時半です。今日活動を開始したのは朝6時だったのですけどね。ここに来るだけでも一仕事です。