2017年1月4日水曜日

盛岡市/Morioka

せっかく遠野、花巻まできましたので、盛岡まで足を伸ばしてみました。
しかし、盛岡に何があるのか知らずに来ましたし、何かあることを期待したわけではありません。身近に岩手に縁のある人がいないので、岩手や盛岡にイメージがわかないのです。
銀行を設立するのがブームになった時代がありました。建物ではなく組織としての銀行をです。
当時は各地域には特色も活力もありました。このレンガ造りの銀行は、その時代の勢いや意気込みのようなものを伝えてくれるような気がします。
むろん、そのようなものは今はほとんど残っていません。
 まだ18時を過ぎたばかりなのにアーケドはこのとおりです。
盛岡駅前です。新幹線停車駅ですので、駅舎はそれなりの規模です。
今から東京に戻ることもできますが、一泊することにしました。
岩手山です。
綺麗な山ですが、活動している火山です。
正月早々来ましたが、今年は雪が少なくこのとおりです。
「平民宰相」の原敬記念館にやって来ました。
ほぼすべての政治家は軽蔑の対象ですが、初の平民出身で総理大臣に就きながら爵位は固辞した原敬には好感を持ちます。
岩手は地の利が悪くなにかと不利なところですが、地元出身の志あった人々を忘れずにやっていけば良いのではないでしょうか。

伝承園/Denshoen

伝承園自体は遠野物語の舞台というわけではありません。
しかし、遠野のことを知ろうと思えば、また遠野物語を知ろうと思えば、伝承園は欠かせません。
建物は、地元では非常に多い「菊池さん」の古いお家ですが、茅葺きの曲り家がどのようなものなのかを見ることができます。
曲り家は、馬と密着した生活の象徴であり、また現実でもあります。
下は、反対側の写真です。
馬と密着した生活を送っていたので、オシラサマ信仰の話も生まれたわけです。
で、そのオシラサマ信仰が具体的にどのような形で行われているのかも、迫力のお堂で実感することができます。
なお、念の為ですが、オシラサマ信仰は、馬のための信仰ではなく養蚕のための信仰です。
と、同時に、群馬だけでなく東北のここにおいても養蚕が行われていたことを理解することができます。
他には、遠野物語の元ネタを収集した佐々木喜善の記念館もありますし、地域におけるかつての農業のあり方等知ることができ、非常に教育的です。
と言いますか、遠野を濃縮したのが伝承園ですので、駅から出ているバスに乗って来られると良いかと思います。
柳田國男が宿泊した宿にも同じようなものがありましたが、神棚の下に「神」を描いた「紙」を貼る風習があるようです。

かっぱ淵/Kappa-buchi

かっぱ淵に来てしまいました。もとより行く予定ではいましたが。
わたしは一体何を期待して、何を見ようとしてこんなところに来てしまったのでしょうか。
まあこういうのは冗談として許せる範囲ではあります。
観光客がこれをどう活かすべきなのかは分かります。
写真に撮って「カッパいたよ!」とか言うためのものです。
何もなかったらなかったでつまらないので、均衡点としてこういうものを設置することで落ち着いたのだろうと思います。
遠野物語のカッパの話がここで起きた出来事だとしても、わたしは作り話だと思っていますし、他の訪問客もそう思っていると思いますが、それにもかかわらずここに来てしまうのはなぜなのでしょうか。
カッパを探したいわけではありません。
カッパが出てきそうなおどろおどろしい淵を期待して来たわけでもありません。
カッパのネタをどう料理しているのかを見に来たのです。
しかし、せっかくの地域振興のネタもほとんど活かせていません。
お金を落とすに値するものはありませんでした。そうする気もないようです。
と厳しいことを書きましたが、カッパのネタをどう活かせば良いのかはわたしにも分かりません。
逆に考えて、ネタ自体はあるものの、「訴求力は弱く換金性も低くどうしようもないからこのままにしている」のかもしれません。
これと同じ条件のものが東京にあるとなれば、話は別です。人を集めることもできるでしょうし、売店を出してもなんとかやっていけるはずです。
と考えるなら、すべては「地の利」の問題なのかも知れません。
地の利の問題だとすると、東北は不利です。
といいますか、どうしようもありません。
本物のカッパが現れたとしてもここでは商売にならないと思います。

遠野/Tono

JR遠野駅です。立派な駅舎ですが、特急を除いて2時間に1本程度しか来ない地方路線です。
それもそのはず、遠野市人口は3万人にも満たないのです。
駅周辺はよく整備されていますが、駅以外は田畑と道路ばかりです。
遠野物語の舞台は市街ではなく、遠野市のあちこちです。
その代わり、市街にはホテル、市立博物館、「とおの物語の館」、「遠野城下町資料館」があります。
博物館はすばらしく教育的なもので遠野を理解することができるものでしたが、「とおの物語の館」は遠野物語とは関係がなくただの民話を扱った半端な施設でした。誰がどういう目的で作ったのかは、想像に易いところです。
それら以外にも、柳田國男が泊まった宿も移築して展示されていました。
確かに、遠野が日本中で知られるようになったのは他でもない、柳田國男のおかげです。
しかし、柳田國男の「遠野物語」の内容は、地元の佐々木喜善が聞き取って収集したものです。
もちろん佐々木喜善の「遠野物語」では埋もれていたことでしょうし、柳田國男は日本における民俗学、あるいはアナール派的社会学の祖なので、柳田國男を語らないわけには行きません。
柳田國男の故郷は兵庫の中央部の田舎で、そこではまったく忘れ去られた存在です。
ならば、遠野で神のように扱われるのもありかも知れません。

柳田國男は遠野に生活の本拠をおいたことはなく、ごく短い期間、現地調査を行っただけです。
ですので、その多少の縁だけでここまですることに違和感を覚えます。
柳田國男が泊まったうんぬんはともかく、当時の宿の様子が分かるのは貴重なことです。
それもまたひとつの「民俗学」です。
火鉢や囲炉裏があるところは今とは違いますが、本当に当時のままなのでしょうか。



神棚に貼られた切り絵は如何にもそれらしい風ですが、どうなんでしょうか。

遠野市立博物館/Tono Municipal Museum

語り部の話を聞くことができるホテルのすぐそばに遠野市立博物館があります。
この近くに城があったため、遠野市の中心的施設がここに集中しています。
こちら遠野の「獅子舞」です。
実は「獅子」ではなく「鹿」なので「しし踊り」と書かれます。
一見アイヌの影響を受けているように思えますが、伝承によれば戦国時代末期に京都から伝わったものを地元風にアレンジしたものなので、アイヌとは関係はないようです。
3万5千年以上昔の遺跡とされる金取遺跡から出土した石器です。
こうした石器が出土するということは、「こんなところに」有史以前から人が住んでいたことを示します。その頃は稲作はまだありませんから、もっぱら狩猟中心の生活だったはずです。寿命は短かったわけですが、意外と生きていけるものなのだなあと思います。
こちらは奈良時代の土器です。上の石器と比べると最近のものですが、日本が統一されるかされないかくらいの時代のものです。
国ができたからといって彼らの暮らしが良くなったわけではありません(むしろ負担が増えた)から、自分たちの暮らしは自分たちでやっていかないといけません。
さて、わざわざ遠くから遠野にやって来たのは、遠野物語の世界を知るためです。
で、この上と下の写真の偶像は、山口孫左衛門の家にあったと伝えられている木造です。
山口孫左衛門の家は「座敷わらしが出て行ったことで没落」しました。この話が伝わって以来、座敷わらしは、家に繁栄をもたらす守り神と見なされるようになりました。
その話を覚えるだけでも十分に、遠野物語の柱の一つを覚えたことになりますが、まだ十分ではありません。
遠野を理解するためには、地域特有の信仰であるオシラサマを理解しないといけません。しかし、このオシラサマ信仰は結果であって、原因ではありません。
オシラサマは、何かの前兆を「お知らせしてくれる」神ですが、オス馬と人間の女のカップルで一対をなす神です。なぜ馬と人が夫婦になったのかというと、それは遠野では馬が生活に密着しているからです。
農業に馬は不可欠ですが、遠野はそれだけでなく、釜石や花巻、盛岡につながる街道のポイントで、馬を使って荷物を運搬する仕事が盛んでした。
数頭の馬に荷物を背負わせて各街に運ぶ仕事は「駄賃付け」と呼ばれ、高報酬の仕事でした。
これはジオラマですが、このように運んだのかも知れません。
馬が生活と密着していることから、遠野ではこのような「曲り家」と呼ばれる、馬小屋と住居が一体となっている家屋が発達しました。防風や保温の観点から都合が良かったようです。
このように馬と生活をともにすると、馬を愛する娘の話が現実に/空想に生じたとしても不思議ではありません。
馬は生活のために欠かせないパートナーでしたから、馬用の草履を作ったりもしていました。
オシラサマは結果的に生じたもので、その信仰が馬を大切にさせたわけではありません。
このジオラマでは駄賃付けも描かれています。駄賃付けは馬を扱う技術や体力が必要であり、また山賊に襲われるリスクもありましたが、通常の賃金(10銭)の20倍の駄賃(2円)を得られたので、立身出世の手段でした。
馬の市の様子です。
今で言えば、中古車市場と言ったところでしょうか。
このように馬に対して格別の関係のある遠野でオシラサマ信仰が盛んになったとしても何の不思議もありません。しかし、その崇拝方式にバリエーションがあります。
通常は、ポンチョのような貫頭衣を着せていますが、下のようにてるてる坊主タイプのオシラサマもあります。
今時このような人形で遊ぶ少女はいないでしょうが、昔はこれでも十分な楽しみごとだったのだろうと思います。
工夫をこらす余地はありますし、想像力を働かせる余地はさらにありますから。