2017年1月4日水曜日

遠野市立博物館/Tono Municipal Museum

語り部の話を聞くことができるホテルのすぐそばに遠野市立博物館があります。
この近くに城があったため、遠野市の中心的施設がここに集中しています。
こちら遠野の「獅子舞」です。
実は「獅子」ではなく「鹿」なので「しし踊り」と書かれます。
一見アイヌの影響を受けているように思えますが、伝承によれば戦国時代末期に京都から伝わったものを地元風にアレンジしたものなので、アイヌとは関係はないようです。
3万5千年以上昔の遺跡とされる金取遺跡から出土した石器です。
こうした石器が出土するということは、「こんなところに」有史以前から人が住んでいたことを示します。その頃は稲作はまだありませんから、もっぱら狩猟中心の生活だったはずです。寿命は短かったわけですが、意外と生きていけるものなのだなあと思います。
こちらは奈良時代の土器です。上の石器と比べると最近のものですが、日本が統一されるかされないかくらいの時代のものです。
国ができたからといって彼らの暮らしが良くなったわけではありません(むしろ負担が増えた)から、自分たちの暮らしは自分たちでやっていかないといけません。
さて、わざわざ遠くから遠野にやって来たのは、遠野物語の世界を知るためです。
で、この上と下の写真の偶像は、山口孫左衛門の家にあったと伝えられている木造です。
山口孫左衛門の家は「座敷わらしが出て行ったことで没落」しました。この話が伝わって以来、座敷わらしは、家に繁栄をもたらす守り神と見なされるようになりました。
その話を覚えるだけでも十分に、遠野物語の柱の一つを覚えたことになりますが、まだ十分ではありません。
遠野を理解するためには、地域特有の信仰であるオシラサマを理解しないといけません。しかし、このオシラサマ信仰は結果であって、原因ではありません。
オシラサマは、何かの前兆を「お知らせしてくれる」神ですが、オス馬と人間の女のカップルで一対をなす神です。なぜ馬と人が夫婦になったのかというと、それは遠野では馬が生活に密着しているからです。
農業に馬は不可欠ですが、遠野はそれだけでなく、釜石や花巻、盛岡につながる街道のポイントで、馬を使って荷物を運搬する仕事が盛んでした。
数頭の馬に荷物を背負わせて各街に運ぶ仕事は「駄賃付け」と呼ばれ、高報酬の仕事でした。
これはジオラマですが、このように運んだのかも知れません。
馬が生活と密着していることから、遠野ではこのような「曲り家」と呼ばれる、馬小屋と住居が一体となっている家屋が発達しました。防風や保温の観点から都合が良かったようです。
このように馬と生活をともにすると、馬を愛する娘の話が現実に/空想に生じたとしても不思議ではありません。
馬は生活のために欠かせないパートナーでしたから、馬用の草履を作ったりもしていました。
オシラサマは結果的に生じたもので、その信仰が馬を大切にさせたわけではありません。
このジオラマでは駄賃付けも描かれています。駄賃付けは馬を扱う技術や体力が必要であり、また山賊に襲われるリスクもありましたが、通常の賃金(10銭)の20倍の駄賃(2円)を得られたので、立身出世の手段でした。
馬の市の様子です。
今で言えば、中古車市場と言ったところでしょうか。
このように馬に対して格別の関係のある遠野でオシラサマ信仰が盛んになったとしても何の不思議もありません。しかし、その崇拝方式にバリエーションがあります。
通常は、ポンチョのような貫頭衣を着せていますが、下のようにてるてる坊主タイプのオシラサマもあります。
今時このような人形で遊ぶ少女はいないでしょうが、昔はこれでも十分な楽しみごとだったのだろうと思います。
工夫をこらす余地はありますし、想像力を働かせる余地はさらにありますから。