2017年5月29日月曜日

イエスの町カペルナウム/Capharnaum - The Town of Jesus

イエスの町カペルナウム/Capharnaum - The Town of Jesus
土休み(8:00-17:00)、5シェケル

両教会から3km程度のところに「イエスの町カペルナウム/Capharnaum - The Town of Jesus」があります。

路線バスが走っていないわけではありませんが、本数が少なく使い物になりません。ここではツアーバスでの移動が基本です。
ツアーバスで来ていなくても大丈夫です。道路には歩道がついているのでそこを歩けば良いのです。イエスも歩いたはずですから、むしろ実際に歩いてみるのはどうでしょうか。
最初のゲートです。
ドレスコードや禁止事項が分かりやすく説明されています。
ノースリーブや腹の出る服装はNGです。もっともそれはここだけに限るものではありません。
ショップです。中にはショップはありません。
水を補充するならここでしておきましょう。
エントランス手前の修道院の向かいにある像です。どなたなのかは存じませんが、古代の祈りのスタイルです。今ではこんな格好して祈る人はいませんが、昔は真面目な祈りの姿勢だったのです。
エントランスです。入場料5シェケルです。

いよいよ、「カペルナウム」に入ります。カペルナウムについて特に説明する必要はないでしょう。さて、この「カペルナウム」という訳語についてですが、「カファルナウム」という訳語を推したい人々がいるようでやや問題です。このことについて表面的なことを書くと、英語のCapernaumを音訳すれば「カペルナウム」となり、Capharnaumならば「カファルナウム」になるといういう単純なカラクリで、「元の発音に近いものを用いるべき」というもっともらしい建前で「カファルナウム」を使わせようとしているようです。

この聖書中の固有名詞の訳語に特徴的な語をあてようとする動きには、本質的な2つの問題が潜んでいます。それは、どの訳語を使うかによって使っている聖書が推定され、どの派閥に組みしているかを暗に示すことになってしまう問題、また、そもそも日本人の音感になじまない訳語を採用するのは日本語訳のセンスとしてどうなのかという問題です。

いまさら「ナザレ人イエス」を「ナゾラ人イエスース(「ナゾラ」は誤記ではありません。岩波訳によるものです)」と呼びたいとは思わないのと同じように、わたしは「カペルナウム」は今後も「カペルナウム」と呼びたいと思います。しかし皆さんはそれぞれご自身のお考えがあることでしょうから、「カファルナウム」とか「カペナウム」とか、その思いのまま呼べば良いと思います。

なお、ここの「カペルナウム」は「カファルナウム」推しのようです。カトリックが運営しているからです。
ここのカペルナウムには、ローマ時代の遺跡だけでなく、4、5世紀のシナゴーグ(会堂)や「ペテロの家」と名付けられた興味深い教会があります。
その発掘調査は、1900年代にカトリックのフランシスコ会の手によって行われました。その調査は非常に実りあるもので、多くの遺物、遺跡が発掘され、イエスの時代、それ以前以後のカペルナウムの全貌を明らかにしました。
カペルナウムは、ヘブライ語聖書には出てこないことから明らかなとおり、その時代には町としては存在していませんでした。カペルナウムという町/村の成立は紀元前2世紀頃のハスモン朝の頃です。
カペルナウム/Kfar nahumの意味は、「ナホムの村」です。マカベア家の時代に(預言者ではない)ナホムさんが作ったのかもしれません。
町の規模は約6ヘクタールで、人口は1500人ほどでした(当時のナザレの人口は400人程度と考えられています)。
カペルナウムの産業は、漁業、農業、交易と多様でしたが、国境の町でしたから徴税も産業のひとつでした。マタイもカペルナウムで仕事をしていたところをイエスに召かれました。
しかし、マタイがどんな人物だったのかは、税の取り立てをしていたこと以外は何もわかりません。福音書筆者の誰もマタイのことを書き残していないからです。

斑入りのリュウゼツランです。ヤシ等これらの植物は後から植えられたものです。
イエスから委ねられた天の王国の鍵を手にしているペテロの像です。ガリラヤ湖畔でイエスに勧誘を受けたのは、ペテロだけではなく、他にもその兄弟アンデレ、ゼベダイの子のヨハネとヤコブ、さらにはマタイがいました。なぜ、ペテロの像だけがあって、その他(イエスを含む)の像はないのでしょうか?

イエスがペテロに一定の権威を付与したのは争いのないところです。福音書筆者が、異なった描写でそれを書き留めていることを考えるなら、また、マタイの発言が福音書の中には見られない一方でペテロのさまざまなエピソードは書き留められていることを考えるなら、イエスの死後にペテロが集団内で一定のリーダーシップを発揮し目立った地位に着いていたのは事実であると思われます。

集団指導体制といってもその指導部内でチェアマンとして振る舞う人がいるのは普通のことですから、ペテロがイエスを3度も否認したり、同胞の目を気にして異邦人との交わりを避けたりした程度の人間だったとしても、ペテロが他の使徒や弟子に対しリーダーのように振る舞っていたことは十分ありえることです。

カトリックでは、そのようなペテロこそ初代の教皇だと考えています。教皇の権威はそのようなペテロから連綿と受け継がれたものだということを暗に示すために、カペルナウムにペテロの像が建てられたのです。フランシスコ会は、カペルナウムの発掘調査と再現・管理という称賛に値する立派なことを行いましたが、それもこのような宣伝活動で台無しです。

白い会堂/White Synagogue
ペテロの家/Peter's House