加茂荘は庄屋の屋敷でしたが、甘草屋敷は長百姓の屋敷です。長百姓とは庄屋ではなく、それに次ぐ程度の有力な農家のことです。しかし、そのような階級に基づく分類は、この記事においてはまったく意味がありません。実際のところ、甘草屋敷は幕府にカンゾウを献上する御用達でした。
甘草屋敷の最大の外観的特徴はその屋根にあります。切妻造ですが、中央に突き上げ屋根があり、そこはかとなくモダンな感じがします。
屋根は、今は銅板が葺かれており立派に見えますが、元々は茅葺でした。
これは屋敷内に展示されていた写真です。
昭和10年撮影とのことです。
茅葺だと印象が異なりますね。
2階から「薬草広場」のある南側を写した写真です。手前に見えるのが甘草の栽培スペース「甘草園」です。
かつての日本の甘草の栽培地ということで、ここでも最近になって試験的な栽培が行われるようになりましたが、これだけの量ではどうにもなりません。日本は甘草(ウラルカンゾウ)については輸入に依存していますが、産出国である中国やモンゴルでは狩猟的な甘草の採取が行われており、つまりは、自然に生えているものを掘り出すことしかしていないため、今の状況が続けば近いうちに取り尽くされてしまいます。
そのため、国内で栽培・生産しようとする動きがあちこちで見られています。
円筒形の筒が立て掛けられているのが見えますが、根茎を採取しやすいように1mほどの塩ビパイプを用いる栽培方法が研究されています。
日本で栽培する場合は、コストが特にネックになりますが、地面を手や重機で掘り返すよりは筒の方が都合が良いでしょう。乾燥した状態を作り出し水ストレス状態を保つためにも望ましい方法のように思えます。といっても、土の入ったパイプを運ぶのは重労働ですし、モンゴルのような寒さと乾燥を高温多湿の日本の平地で再現することは容易ではありません。
さて、屋内です。襖が外されているので広さがひと目で分かります。
この程度の広さならなんとか管理できなくもありません。しかし一人では広すぎるかも知れません。
縁側です。外でもなく内でもないあいまない境界です。作業の合間に茶を飲んだり菓子を食べたりできそうです。
このような軒先は、今ではほとんど見られなくなりましたが、その代わりに「ウッドデッキ」が作られたりしています。
甘草にどれだけ需要があろうと、日本の高い土地で何年も時間を掛けて栽培し、それを日本人が採取していては計算があいません。
家の前の庭で何かを育てる生活は、なかなか難しいように思います。
これは2階の様子です。かつては蚕が飼育されていました。富岡製糸場があった群馬が養蚕業のメッカだったこともあり、関東以北では養蚕は珍しくなく、2階で蚕を飼うというのはよくあることでした。
食べるための農業も必要ですが、カネを産む農業も必要です。
大黒柱です。今やこのような材木を手に入れることはほとんど不可能です。このような木があるところといえば、神社くらいしか思いつきませんが、神社から大木を購入するルートは、通常は、ありません。
この大黒柱だけでも、「立派」な家であることが分かります。
昔の人/多くの人にとって大きな家は富の象徴でありステイタスでもありましたが、ここも加茂荘も、そうした虚栄心のためではなく、実務的な必要からそのような大きさになったものです。
側面からみた甘草屋敷です。合掌造りが思い出されますが、屋根の勾配は合掌造りの方が急峻です。
甘草屋敷は、主屋と薬草園しかなかったわけではありません。複合的な建物によって、甘草の栽培が行われていました。
結構な広さです。これだけ広いと管理しているだけで一生が終わってしまいそうです。